Saya Cinta Malaysia

マレーシアの文化や今昔のマレーシア旅。マレー系夫との国際結婚あれこれ。

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弥生さん安らかに。

皆様、こんにちは。

 

久しぶりの投稿ですが、どうしてもここで気持ちを綴っておきたくて書くことに。興味がない方はそっとページを閉じていただけたらと思います。

 

 

【念願の一時帰国が叶った矢先に旅立ってしまった弥生さん】

 

先日、ベトナム在住のお友達弥生さんが永遠の眠りにつきました。

 

2020年春頃から世界の多くの国で自由な行き来ができなくなり、ベトナムもかなり厳しいロックダウンを長く行っていたと聞いています。そんな中での二国間の行き来は本当に難しく、弥生さんもなかなか日本への一時帰国が叶わずやっと年末に帰ることができた矢先の出来事でした。

 

「緊急入院した」とご本人からひと言だけ連絡があってから、あっという間にいなくなってしまった。そんなに急がなくても!というくらい、本当にあっという間の出来事でした。

 

ベトナムとマレーシアで離れていた私達】

 

ベトナムハノイに暮らしていた弥生さん、そしてマレーシアに暮らす私。決して遠いわけではないし、以前の世界の状況であればフットワークの軽い私達だから、きっともっと会えていたはず。

 

2020年の春からはそんなこともできない日が続き、結局約三年近く会えていませんでした。ただ、SNSではずっとお話をしていて緊急入院されるギリギリまで普通にメッセージのやり取りもし、やっと日本に帰れて少しホッとしていた様子も伝わってきていました。

 

でも、SNSでお話はできていてもこの一年ほどは体調について言及することが増えていました。

 

ロックダウン中にご出産もされてまだ小さな息子ちゃんがいるから育児にも向き合わなくてはいけない中、深刻さは感じない言い方ながらも時折つらそうな言及があって気にはなっていたけど、まさかという根拠のない過信からあまりしつこく声掛けすることもせず、気が付いたら…という事態で。

 

きっとご本人もあっという間に起き上がれなくなり、なんだか分からないままいってしまったのではないかと、それを考えるとつらくてなりません。

 

【後悔が残る、私自身の生死との向き合い方】

 

私は自分自身が2014年に乳がん罹患をした経験があり、その時に自分や人の命というものに真正面から向き合って苦しんだはずなのです。

 

そう、「はずなのです」。人間は忘れる生き物なのだなあと思い知らされました。弥生さんが重篤な状況で余命がわずかとご家族から告げられた時に初めて、その昔に向き合ったはずの、人の命の儚さを思ってつらかったあの気持ちを思い出しました。

 

今日元気な人が明日も必ず元気でいるわけではない、ということをあの時思い知ったはずで、あの時から命に対してもっと真剣に向き合えているつもりでした。

 

人は都合よく生きている生き物なのだなと本当に自分が恨めしくなり、そして弥生さんがこんなことになるまで何もできなかったことに対して情けなくて号泣しました。弥生さんがSNSで不調を呟いていた時に、なぜ病院でのしっかりとした受診を勧めなかったのかと後悔が残ります。

 

SNSで出会った弥生さんとの、リアルご対面でのインドネシア旅】

 

弥生さんと私の出会いは、いつの間にかでした(笑)。

 

お互いマレーシアや台湾が好きで、インスタやTwitterでいつの間にか繋がっていたのですが、お互い込み入った話題もできるようになったのは2016年くらいからだったと記憶しています。だんだんと深いお話もするようになり、色々なご縁とタイミングで2017年5月にリアルで初対面と同時にインドネシアジャカルタとチレボンを共に旅しました。

 

 

日本から来た私、ベトナムから来た弥生さん、そして当時まだ友人関係だった今は夫となっているハムザもマレーシアから参戦してきて、インドネシアで現地集合!みんなフットワーク軽いな!(五年前で今より若かったからかな?笑) なんとも楽しく珍道中な旅でした。

 

その時の旅はこちらに記しています。

malaysiacinta.net


私と弥生さんは初対面、そして弥生さんとハムザも初対面、という組み合わせなのに、それぞれが初めて会ったとは思えない居心地の良さでインドネシアでの四日間を過ごし、そしてその後も国をまたいで交流は続いて。

 

ハムザともすっかり仲良くなって私達のマレーシアでの結婚式にもわざわざベトナムから来てくれたり、私の友人にも紹介して皆で一緒に台湾を旅したり。本当に楽しい時間をたくさん過ごしました。

 

【ハムザを「先生」と呼んだ元祖は弥生さん!】

 

弥生さんがお亡くなりになった数日後にハムザがぼんやりと、「僕のことを「先生」と呼ぶようになったのは、弥生さんが最初だったよね。」と。

 

チレボンでお茶をしながら、ハムザをこの数日観察していた弥生さんが「ハムザさんはどうしてそんな器用に色々できるんですか?先生みたい!」と言ったことがきっかけで、弥生さんはそれ以降ハムザのことを「先生、先生」と呼ぶようになりました(笑)。

 

それにつられて私もハムザのことを一時期ハムザ先生と呼んでいたら、ハムザに会ったことない私の友人達もハムザ先生と呼ぶようになったりして。

 

ハムザは弥生さんとのどんな出来事を思い出しながら、私にこのこと話しかけてきたのかな。私にとってもハムザにとっても、大好きで大切な友達だったのです。

 

【返事が来ないSNSアカウントを見つめては思うこと】

 

弥生さんとはいつも国をまたいで距離がある場所でお互い暮らしていたけど、オンラインでもたまに会えた時も、楽しい話だけではなくて普段は心の片隅に眠らせてふたをしているようなネガティブな話もできて、お互いの心境を思いやれる良い関係でした。

 

ハムザからプロポーズされた時も、インドネシアで丸々四日間共にした人だから彼女の意見も聞いてみようと思ったことも。「すごく誠実で素敵な人じゃないですか!いいと思う。」と猛烈に奨めてくれたことを覚えています。惚気話もたくさん聞いてくれたし、外国で暮らす大変さも同じ目線で話せることが本当にありがたかったです。

 

ずーっと会えなかったけど、ずーっとSNSで話していて当たり前に近くに感じていた友達なのに、もう返事来ないんだなあと今でもたまにぼんやりと、あの日から言葉綴りが止まったままの弥生さんのSNSアカウントを見つめてしまいます。

 

私がマレーシアに移住をしてからは、マレーシアに会いに行くね!と言ってくれていたし、私とハムザもベトナムに会いに行こうと話していたし、そして何よりも、私達が楽しく過ごしたインドネシアのチレボンにまた同じメンバーで行きたいねと話していたくらい、三人で、いやこれからは息子ちゃんも加わってまた旅がしたかった!

 

【止まった時間と止まらない日常が錯綜する日々】

 

もう会えないんだな、寂しいけれど受け止めなくてはと思うし、そして何より弥生さんがお亡くなりになってからも生きている私達の日常は続いていて。

 

私やハムザは命がある限り、今置かれている場所で生きていくのです。弥生さんがいなくなった瞬間からもそれは変わりなく続いていて。時折、弥生さんのことを深く考えてしまったりいつかの楽しかった時が綺麗に込み上げてきたりするのですが、それも少しの時間が経つと日々のあれこれを過ごし、そしてそばにいる大切な人と笑い合う時間にすり替わっていく毎日です。

 

日常の中にも弥生さんを感じられることはたくさんあって、マレーシアや台湾、そして日本で弥生さんと共に過ごした場所や共感しあったことを目にした時、心の中で弥生さんに話しかけています。

 

弥生さんが好きそうなものを見かけたら、ハムザに「これ弥生さん絶対好きよね!」と言ってしまうことも。そんなふうに弥生さんのことを笑って一緒に話せるハムザが隣にいてくれて、本当に良かったと思っています。

 

【弥生さん、安らかに】

 

本当はもっとたくさん会って一緒に笑って話していたかったけれど、入院されてからは痛みが酷くて苦しそうだったとご家族から聞いているので、今は解放されてゆっくり休めているといいな、と思っています。

 

旦那様や息子ちゃんは弥生さんに付いていくこともできず、そして立ち止まってもいられずこれからも進み続けなくてはいけないけれど、私達夫婦で手助けできることがあれば微力ではあっても尽力したいと思っています。

 

弥生さん、本当におつかれさまでした。安らかに。いつかまた、会えますように。

 

 

*****

 

インナーリッラーヒワインナーイライヒラージウーン

まことに私たちはアッラーの許からきて、そしてまことにアッラーの許へと返ります。


アッラーヤラハムワユキヌファイイヒジャナザー

神が彼らに慈悲をお与えになさり、天国で生かしてくださいますように。