Saya Cinta Malaysia

マレーシアの文化や今昔のマレーシア旅。マレー系夫との国際結婚あれこれ。

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マレー系マレーシア人達と過ごした初めてのトレンガヌ州滞在を振り返る

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皆様、こんにちは。

 

2004年、今からもう20年近く前…ですが半年くらい仕事をしていなかった時期があり、せっかくの長いお休みだからと、マレー半島をぐるぐる周りひたすらぶらぶらして、という旅をしました。

 

それまではマレーシアへの旅は短い滞在ばかりで一カ所のみの滞在が多かったのですが、せっかくだから今まで行ったことないマレーシアの各地を全部制覇してみよう!と思い立ち、マレー半島縦断というか一周のような旅をしました。

 

 

【初めてどっぷりとマレー系マレーシア人の中で過ごしたトレンガヌ州での滞在】

 

この旅で一番長く滞在をしたのがTerengganu州(トレンガヌ州)。それまでほぼマレー系マレーシア人しかいない、という環境に長く滞在をしたことはなかったのですが、マレーシアを知っていく過程で徐々にマレー系の文化に惹かれていた頃だったのです。

 

マレーシアで知り合ったマレー系マレーシア人がよく、「トレンガヌやクランタンはマレー系ばかりだよ」と言っていたことがずっと心に残っていて、それまで滞在をしていたPenang島(ペナン島)から夜行バスに乗って移動をしました。

 

まずはKelantan州(クランタン州)のKota Bharu(コタ バル)に行き、一週間ほど滞在した後に今度はトレンガヌ州へと移動をしました。

 

このトレンガヌ州での滞在が、私にとっては初めてどっぷりとマレー系マレーシア人だけに囲まれて過ごす時間となり、その後のマレーシアへの接し方や見方が変わっていった入口だったと言っても良いでしょう。

 

【車窓に流れる景色が最高だったローカルバスの旅】

 

この旅の最初の頃にKL(クアラ ルンプール)で知り合った方から、「海がとても綺麗でのんびりとしたローカルしかいない小さな島。でも昼間は電気が止まるからね(笑)。」と教えてもらっていたPulau Kapas(カパス島)がトレンガヌ州にあることも分かり、ならば行ってみようと。

 

 

まずはKuala Terengganu(クアラ トレンガヌ)に滞在し、そこからMarang(マラン)という小さな町に南下をしました。クアラ トレンガヌからマランまでの移動は小さなローカルバス。今のマレーシアではもう走っていないような冷房もなくて窓全開の古いバスだったけれど、とにかく車窓にずっと流れる海沿いの景色が私には楽しくて楽しくて。

 

 

入り込んでくる海風に吹かれながらずっと続く海岸線を眺めたり、初めて眺めるマレー系しか暮らしていないKampung(カンポン/村)の景色に魅了されたり。

 

 

たまに乗り込んでくるかわいいマレー系マレーシア人学生達に話しかけられたりと、それはそれは楽しい道中でした。

 

【たくさんのマレー系の人達から優しくしてもらった東海岸滞在】

 

40リットルの大きなバックパックを背負ってバスに乗り込んできた明らかに外国人の私に、地元のマレー系のおばさま達が色々気にかけてくれて、どこに行くの?マランで降りるの?降りるところ分かるの?と世話を焼いてくれたのでした。

 

マランの町にあるカパス島行きのボートが出る港、Jetty(ジェッティ)に一番近い場所に近づいたら、そのおばさま達が運転手さんにわざわざ声をかけて私を下ろしてくれました。窓から手を振ってくれてお別れをしたけど、あの親切なマレーシアのおばさま達、20年近く経った今でも忘れていません私。

 

 

そんな感じで辿り着いた小さなマランのジェッティですが、見事にだーれもいなくて(笑)。困ったな~今日はもうボートは出ないのかな~…とぽつんと座っていたら、マレー系マレーシア人男子がバイクに乗ってぶーんと現れて(もちろんノーヘルで)。

 

カパス島に行きたいということを伝えてみたら、ふーんとその男子君がどこかに声をかけに行き、そして30分くらいしたら小さなボートが一台やってきたのでした(笑)。

 

この流れは未だに分からないままカパス島までたどり着いたのですが、確かRM10(約266円)に満たないくらいの支払いをした記憶しかないのですが、結局ボートにいたお客は私だけでした。私一人のためにボートを出して、採算は取れるのだろうか…と思った記憶もあります。

 

【日本での価値観を色々ひっくり返されたカパス島での滞在】

 

そんな感じでたどり着いた東海岸に浮かぶカパス島での二週間の滞在。本当にマレー系マレーシア人しかいなくて、毎日新しいことを知るみたいな連続の日々でした。

 

 

当時のカパス島は朝から夕方6時までは食堂以外は電気が止まってしまう島。色々不便なこともあったりはするのですが、東京で都会暮らしをしている私がそれまで知ることのなかった価値観とか生活の知恵とか、電気がなくてもなんとか暮らしていくことはできる工夫や発想をあれこれ知ることができる時間でした。

 

 

そして日本と比較するだけでなく、それまで滞在していたマレーシアの各地でも味わったことのない時間であったことも事実です。

 

毎日片言のマレー語を教えてもらったり、皆でテレビを観ながらあれこれ話したり、時に誰かの部屋でマレーシアのご飯をごちそうになったりしながら過ごした日々でした。

 

【外見のこだわりに捉われなくなった日々】

 

若さゆえということもあったかもしれませんが、それまでも数カ月ずっとマレー半島を日焼け止めも塗らず歩き回っていたから、肌は真っ黒に焼けてしまっていた私。

 

 

日本で過ごしていた時はあんなに見た目やファッションにこだわりを捨てられなくて、「人からどう見られるか」が気になっていた私だったのに、マレーシアを旅して過ごしているうちに、そういうことから少しずつ解き放たれていることにも気が付きました。

 

この、一見不便な環境と言ってもいいカパス島でいっそう余計なものを排除した滞在になり、さらに真っ黒に(笑)。でも、何にも気にせず毎日笑い転げて、色々なマレーシアを知り、学ぶこともできて本当に楽しかったし考えさせられる時間でもありました。

 

【今につながるマレーシアへの追求の一歩】

 

思えば、このカパス島で色々なマレー系マレーシア人と話すことができて、彼らの暮らしや考え方に興味を持ち、徐々に私の中で「マレーシアをもっと知るためにマレー系マレーシア人を知っていきたい」みたいな感覚になっていたように思い返します。

 

この滞在以降、マレー系マレーシア人達の民族衣装であるBaju Kurung(バジュ クルン)に興味を持ち始めたり、イスラムという信仰ってどんな感じなんだろうな、なんてことを考え始めたと思います。もちろん、そこから本当の意味でのイスラムについて知り始めるのはまだまだ時間がかかったわけですが。

 

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【最後に】

 

今もトレンガヌ州は大好きな場所でたまに遊びに行くのですが、こうやって思い返してみるとこのトレンガヌ州とカパス島滞在がなかったら、また違う形でのマレーシアとのつながりとなったかもしれないし、今の私は違う未来図を描いていたかもしれないと思ったりします。

 

この出来事からずいぶん長い年月が経っているけれど、自分の中ではそんなに時間が経っているように思えないことからしても、きっと私の心の中に生まれるべくして起こった出会いなのだろうな、と思う滞在でした。