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マレーシア・イスラムのハリラヤ ハッジ/家畜を捧げる儀式「クルバン」とは

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※閲覧注意※

この記事は中盤以降、屠畜についての描写や写真を掲載しています。興味本位の掲載ではなく正しい意味や出来事を伝える意図ですが、苦手な方はこの記事を閲覧をしないことをお勧めします。

 

皆様、こんにちは。

 

2024年6月17日、マレーシアではイスラムの祝祭「Hari Raya Haji(ハリラヤ ハッジ)」を迎えました。

 

このハリラヤ ハッジ、マレーシアで暮らしている日本人ならぼんやりとその言葉だけは知っていたり、インターネットなどで調べた知識が少しはあるという方は多いでしょう。とは言え、実際にイスラム教徒がこの日をどのような位置づけとし、そして当日はどのようなイベントが行われるのかについて正しく、そして詳しく知る方は少ないようです。

 

仮にそのイベントについて知っていたとしても、信仰が絡み非イスラム教徒にとっては少々足を踏み入れにくい内容、そして一部からは残酷だという声もあるからか、なかなか参加することができないとも聞きます。

 

そこで今回は、マレーシアのハリラヤ ハッジの中でも特に注目が集まることが多い儀式「Qurban(クルバン)」について説明します。

 

私が今回紹介をするクルバンの内容はマレーシアで体験をしたこと、知り得たことに基づきます。イスラム教は世界中に信仰が根付いている宗教ですが、エリアによって少しずつ違う解釈やルールが存在する場合があります。そのため、他国でのクルバンとは異なる点もあるかもしれませんがご了承ください。

 

冒頭でも記した通り、中盤以降の記事内容には屠畜についての描写や写真が含まれます。該当段落については目次の頭に都度、「閲覧注意」と入れていますので、その部分を避けて読みたい方は、目次からそれらを含まない各項目にダイレクトに飛ぶように読んでいただけると幸いです。

 

 

イスラムのハリラヤ ハッジはどのような意味の日?】

 

ハリラヤ ハッジはどのような意味を持つ日なのでしょうか。一つの祝祭でありながら、実は二つの意味を持っています。

 

・Hari Raya Haji(ハリラヤ ハッジ)

ひとつ目はすでに何度も登場している言葉、「Hari Raya Haji(ハリラヤ ハッジ)」としての祝祭。これは五行【信仰告白シャハーダ)/礼拝(サラー)/喜捨(ザカート)/断食(サウム)/巡礼(ハッジ)】を義務とするイスラム教徒が、その一つであるメッカへの巡礼(ハッジ)を行った者を祝福する日です。

 

・Hari Raya Qurban(ハリラヤ クルバン)

そしてふたつ目の意味が、「Hari Raya Qurban(ハリラヤ クルバン)」としての祝祭です。詳しい由来については後ほど述べますがメッカへの巡礼者たちはこの日、牛や山羊などの動物を捧げる儀式「Qurban(クルバン)」を行うことで巡礼の成功を祝い、巡礼に行かなかった人たちもクルバンをともにすることでこの日を祝います。

 

ちなみに「Hari Raya ○○」という名称自体はマレー語での呼び名となり、世界のイスラム教徒共通でのアラビア語の言い方としては「Eid Al Adha(イード アル アドハー)」と覚えておくと良いでしょう。「Al Adha(アル アドハー)」は日本語で直訳すると「犠牲にすること」の意味です。そして同じく、「Qurban(クルバン)」も「犠牲」という意味の言葉になるため、「Hari Raya Qurban(ハリラヤ クルバン)」の名称になっています。

 

この犠牲という日本語訳から、このハリラヤ ハッジ/ハリラヤ クルバンを「犠牲祭」と訳すことについては思うところもありますので、ぜひ記事後半の説明も読んでみてください。

 

【ハリラヤ ハッジの時期】

 

そのハリラヤ ハッジって毎年何月なの?とよく聞かれますが、毎年少しずつ違います。

 

イスラム教は月の満ち欠けを基本としたヒジュラ暦イスラム暦)を採用していて、30日の月と29日の月が交互に進みます。このヒジュラ暦による12番目のズルヒッジャ月が巡礼月となり、そのズルヒッジャ月の10日目(つまりヒジュラ暦12月10日)が巡礼月の最終日。これがハリラヤ ハッジの日です。先述の通り、西暦の太陽暦新暦)よりも一年の日数が短いことから毎年少しずつ前倒しでずれていきます。

 

ちなみにこの記事を書いている2024年のハリラヤ ハッジは6月17日でしたが、2025年は6月6日の予定です。あくまで予定…。月の満ち欠けに加え、政治家のひと言で祝日も増えたり減ったりするマレーシア!この記事を読んでみてクルバンをぜひ見てみたいからどうしてもこの日を押さえておきたいという方は、ぜひ小まめにニュースなどをチェックしてください。

 

【ハリラヤ ハッジで注目を集める儀式「クルバン」の由来や意味】

 

ではここからは、本題「Qurban(クルバン)」について触れていきましょう。

 

 

ハリラヤ ハッジ当日の朝、イスラム教徒は最寄りのモスクに出向き集団礼拝に参加をし、その後は家族や親族などとお祝いの料理をいただいたりしながら一日を過ごすわけですが、その集団礼拝の後にこのハリラヤ ハッジで大事な儀式となるクルバンが行われます。

 

・クルバンとは

端的に言えばアッラーに牛や羊、山羊やラクダなどの家畜を捧げるために屠畜を行う儀式です。

 

この「屠畜を行う儀式」。これが非イスラム教徒にとってはベールに包まれた感じでよく分からず、聞きかじった言葉やチラッと見かけたその様子からなんだか怖い!というイメージを抱く方もいるようです。

 

というわけで、その詳しい内容について一つずつ説明していきましょう。

 

・クルバンの由来

その昔、預言者イブラヒムがアッラーのために息子イスマイルを捧げることを悩み決意し実行しようとしますが、アッラーはイブラヒムのその献身的な信仰と忠誠心に対し報酬と祝福として息子の代わりに羊を捧げさせます。このイブラヒムが羊を生贄にしたことが由来となり、今日までそれに基づいた儀式が続いています。

 

と、簡単に書いたもののかなり説明を省いて記載をしています。この由来について専門的な用語や解釈も含めて知りたい方はぜひ、NPO法人千葉イスラーム文化センターによるこちらの詳しい解説を参照ください。

www.cicc-japan.com

 

・クルバンの意味や目的

クルバンは、非イスラム教徒から見るとその屠畜行為ばかりに目が行きがちですが、それを行う意味や目的は大きく二つあります。

 

1)まず根幹は預言者イブラヒムのアッラーへの忠誠心を讃え、信仰を示すために家畜を生贄として捧げることでアッラーに感謝の気持ちを伝える、という行為です。

 

2) 先述したイスラムの五行の一つ「喜捨(ザカート)」の目的。富を持つ人は貧しい人に対して富を分け与えるという考え方で、クルバンのために家畜を購入し、捧げられた肉を周囲の人たちに分け与えます。

 

屠畜に注目が集まることで本来の目的ではない内容ばかりが伝わりがちですが、最も大切なことはアッラーへの信仰と感謝です。

 

そしてその延長線上に先述した二点以外の、大切な命をその場で切り分けることを自らの目で見て知ること、さらにはそれを自らの食とすることで命の大切さや食のありがたみを分かち合う、という副産物としての目的も存在しています。

 

【クルバンが行われる場所】

 

宗教儀式のクルバンは、モスクに隣接した敷地などで行われることが一般的ですが、敷地に余裕があれば一般の家庭の庭などでも行われます。

 

これは私の義実家近所でクルバンが行われたモスク裏庭。まだ生きた牛がつながれています。

 

 

後ほど様子の説明でも登場しますが、大きな家畜数頭を生きた状態から食肉処理までを行うわけですから、そこそこの広い敷地、そして大量の血が流れても土に返せるように穴が掘れること、もしくは水で洗い流すことが容易な場所が適しています。

 

このハリラヤ ハッジ当日にどこのモスクの敷地でも行っているわけではなく、そのエリアで数カ所行われています。マレーシアであればイスラム教徒のマレー系マレーシア人が多く暮らすエリアには開催場所も多く点在しています。

 

どうしても見学をしてみたい!という方は、時期が近づいたらイスラム教徒の知り合いなどにしつこく聞いてみると教えてもらえるでしょう。イスラム教徒だからと言って開催場所を必ず知っているというわけでもないので、人の世話を焼くのが好きそうな方を選んで「しつこく」尋ねてみるといいかなと。

 

【クルバンのために用意する家畜とその価格】

 

マレーシアでクルバンの際に用意される家畜は主に牛、山羊が多く、羊が登場することもあります。家畜は経済的に余裕がある人が購入する以外に、そこまで余裕はないけれど喜捨をしたいという方が複数名で購入をするケースもあり、その場合は7名で行うことと決められています。小さな村の有力者がその地域へ一度に何頭もの家畜を寄付することも多いです。大きな牛だと一頭で100人以上のお肉が用意できますので、その規模がお分かりいただけるでしょう。

 

家畜の購入金額は動物の種類やサイズによって変わりますが、ここ数年は平均的なサイズの牛一頭がRM5,000~、山羊ならRM1,500~の相場感です。(もちろんサイズやグレードによって価格は変わります)

 

クルバンの時期が近づくとマレーシアのSNSなどではこのような案内が頻繁に流れてきます。

 

 

<閲覧注意>クルバンの屠畜の流れ】

 

※閲覧注意※

屠畜についての描写や写真を掲載しています。興味本位の掲載ではなく正しい意味や出来事を伝える意図ですが、苦手な方はこの段落の記事閲覧を中止することをお勧めします。

 

当日は先述の通り朝に集団礼拝があり、それが終わるといよいよクルバンがスタートします。

 

屠畜はかなりの力を必要とするため、その地域の体力がある年齢層の男性が大勢集合します。後ほど説明をする頸動脈を切断する行為自体はそこまで力を要しませんし一人で行えますが、それ以外の家畜を押さえたり肉を解体して削ぎ落していく作業は皆で行います。

 

いよいよスタート。この日は牛が5匹、山羊が1匹の屠畜でした。

 

順番に一頭ずつ行います。すでに首はロープで木に固定されていますが、まだ体は自由ですので後ろ足にロープをうまくひっかけていき、徐々にその範囲を増やして身動きがしづらいように固定していきます。

 

 

これが抵抗もあって結構時間がかかりますが、後ろ足で蹴られないようにしながら最後は足にかけたロープを引っ張って地面に倒し、複数人が体重をかけて動きを封じ足のロープをきつく縛って固定をします。

 

 

山羊は体が小さいため短時間で済みますが大きな牛は力も強く、そして重いので屈強な男性何人もで行います。

 

 

地面に押さえつけられた牛を前に、鋭くよく切れそうな大きなナイフを持った男性が登場。祈りの言葉、そして「アッラーフ アクバル(アッラーは偉大なり)」と唱えながら、頸動脈と頸静脈などが交わる箇所に一気にナイフを入れます。この役割はイスラムの先導をするイマームと呼ばれる男性が行うこともありますし、それ以外にもイスラム教徒でこのナイフで切る動作ができる人であれば誰が行っても問題はありません。祈りの言葉もイスラム教徒であれば必ず言える言葉ですので、その点も含めて特別な資格は必要ありません。

 

ナイフが首に入った瞬間、牛からは悲鳴のような叫び声ともとれる苦しそうな声が響き、同時に足や胴体もかなりな力で最後の抵抗のもがきが生じますが、その瞬間までは男性達が足や体を押さえて動きを封じ込めます。そしてほんの1~2秒後には、頸動脈にナイフを入れたことと苦しんで激しく頭を振ったりすることで首筋からはかなりな勢いで血が噴き出て飛び散りますので男性達も素早く離れます。飛び散りは広範囲で、時には半径2m程度は離れていないとかかってしまいそうな印象でした。頸動脈はそれだけ勢いよく血液が流れている場所なのだと、その光景を見て思い知りました。

 

祈りの言葉を唱え始めてからここまではほんの1~2分。ナイフを手にした方の作業も非常に素早かったです。いかに速やかにこの作業を行うか、がとても大切なのだそうです。

 

一度目のナイフを入れてからしばらくは首から血が流れ続けますが、首から流れ出る血を自然に下に流すことも大事とされています。牛もしばらくは体のあちこちが動いて低い唸り声なども聞こえ、絶命にはまだまだ時間を要します。

 

体の動きが鈍くなり始めたら再度首にナイフを入れてとどめの切断をしていき、絶命したことを確認します。この時点で血液はだいぶ流れ出ていますので牛の下の地面は真っ赤ですが、土の上だとそれがゆっくりにじみ込んでいくのでそこまで血だまりにはなりません。ただ、周囲に立ち込める血の匂いと獣臭はすごく、その匂いが命あるものの生死を目の当たりにしていることを意識させます。

 

この、首元にナイフを入れて頸動脈そして頸静脈などが交わる部分を一気に切り裂くこと、その後しっかりとそこからの血抜きをすることがイスラムの訓えに沿った屠畜方法です。これはこのクルバンの時だけではなく市場に出回っているハラールのお肉も全て、この屠畜方法で食肉処理が行われています。(設備・環境の違いなどはあります)

 

<閲覧注意>廃棄する部分はほぼなし。肉の解体】

 

※閲覧注意※

屠畜についての描写や写真を掲載しています。興味本位の掲載ではなく正しい意味や出来事を伝える意図ですが、苦手な方はこの段落の記事閲覧を中止することをお勧めします。

 

首元を切られて絶命し十分な血抜きも確認ができたら、土の上からビニールシートの上に持ち上げて移動させて解体作業が始まります。

 



体にナイフを入れ、内臓やお肉をどんどん取り出していきますが、大きな牛ともなるとこれもまた重労働。腕力のある男性が何人もで分担して行いますが、足などは骨の部分を斧で激しく叩き切ったりするなど力が必要です。

 

 

解体された部位、肉は大きなカートに乗せて速やかに同じ敷地内の肉を細かく切るテントに運ばれていきます。

 

 

その様子を見ながら、普段解体されてからのお肉しか見ていないこともあり、どこまでを食用とするのか?廃棄する部分はどこからなのか?という疑問が湧きます。

 

肉や内臓などほとんどの部分はもちろん食べられますが、例えば骨や皮などはどうするのか?

 

骨付き肉はそのまま食用ですが、肉が削がれた骨はギアボックススープに使用したり。そして皮部分は特に決まりはないらしく、誰も引き取り手がなく希望者がいれば持ち帰っていいよ、というわりと曖昧な基準になっています。

 

 

ただし、このクルバンは利益や欲を追求するための儀式ではないこと、皆に平等に配分をすることが目的のため、「その皮、欲しい!」と最初からもらうことを予約などして宣言することはNGです。

 

大きな牛一頭のどこかの部位が誰かの手元に渡り食卓に並ぶことで、アッラーに感謝を込めて捧げた家畜は同胞たちの命の糧となります。そして、最小限の廃棄で留めることで命と食の大切さが結びつくことにもつながっているようです。

 

なお、内臓などの一部は排泄物などが含まれる場合は廃棄の対象となり、それは屠畜スタート前に準備として掘られていた穴に埋めて処分をすることが一般的だそうです。

 

<閲覧注意>分配のための切り分け作業】

 

※閲覧注意※

屠畜についての描写や写真を掲載しています。興味本位の掲載ではなく正しい意味や出来事を伝える意図ですが、苦手な方はこの段落の記事閲覧を中止することをお勧めします。

 

先ほどの家畜本体から切り分けられた大きな肉の塊。それをテントに移動させてからは、各家庭に分配するために細かく切り分ける作業が始まります。

 

肉を切り分けていく様子をYouTubeにアップしています。ダイレクトに視覚に入らないように年齢制限を設けていますので、興味がある方はリンクからYouTubeに入って視聴してみてください。

 www.youtube.com

 

 

 

この切り分け作業。肉の塊を吊るしてしまった後はそこまで力を要しないため、比較的高齢の男性や時には女性が行うことも。ただ、やはりどこのクルバンの様子を見ても男性の割合が高いようです。生肉なので血が広がったりもしますので男性がメインの作業になることが多いのでしょう。

 

 

部位ごとに計量もしながら等分になるように袋詰め。

 

 

牛など大きな家畜は一頭を三等分として1/3ずつ、1)自分の家族/2)自分の親戚/3)近隣の貧しい人たちそれぞれに配布をしますが、最近はエリアによっては生活レベルの向上から暮らしに困窮する方がそこまではいないこともあり、そういう場合はどこかへ寄付をしたり親しい友人やその時に必要とする方へお渡しすることもあるそうです。1)以外の2/3はすべて寄付の配布が原則です。

 

近隣に配布する場合はクーポンで引き換えになる。

 

ここでの基本もやはり、貧富の差に関わらずアッラーのもとでは皆が平等であること。アッラーに捧げて屠畜されたこの肉は、皆が同じようにいただくことができるという平等の精神が根本にある儀式だと感じます。なお、山羊などの小さな家畜は三等分するとほんのちょっとの量になってしまうので、ここまで厳密に三等分作業は行わないそうです。

 

そして、先ほどの大きなナイフで行う解体作業とは異なり比較的作業が容易な内容ですので、希望をすれば誰でも切り分け作業に参加ができます。これ自体も奉仕の精神の行動となるため、それを労う意味もありこのような軽食も用意されています。

 

 

これも、「他者からいただく善意はアッラーからの報酬」という考えにもつながると感じます。

 

【クルバンは残酷な儀式なのか?】

 

ここまでの情報で、「残酷だ」と感じた方もおそらくいらっしゃるでしょう。

 

イスラム教か否かに関係なく特に先進国や発展が進む新興国などでは今、毎日のように肉を食しながらも、その口にしている肉の原型、そしてその屠畜の工程を目にしないまま暮らしている人がほとんどではないでしょうか。

 

実際はどのような過程を経て調理の場に上がっているかは理解していても、環境が整っている現代に暮らしていたら見ないでも食べられるのだから、あえてその残酷とも思える屠畜シーンに目を向ける必要はない、と考える方も多いでしょう。

 

その言い分も理解できますが、毎日そのシーンを見る必要はないけれど、その肉は生きた命だったからこそ口にしておいしいと感じることに感謝の気持ちを持つことは、年に一度とは言え大切だと感じます。

 

また、屠畜があのような方法で行われること自体は否定をしないけれどクルバンのような大勢の見学者が輪を作って見せ物のように行う儀式は肯定できない、いまだにこのようなことを信仰の儀式としているイスラム教は前時代的だ、という意見も時折見受けられます。

 

そういう意見や考え方について理解できる面もありますし価値観はそれぞれですが、私は初めてクルバンを見て生きた牛が徐々に息絶えていき最後には肉の欠片になっていく様子を目の当たりにした際、興味本位での低俗な見せ物を見たという印象は一切持ちませんでした。むしろ、自分の栄養はあのような過程を経て自分の口に届いているのだから、肉料理をオーダーする時は絶対に残さないできちんと最後まで食べるようにしよう!と心に誓ったくらいです。

 

ベジタリアンで肉は絶対に食さないという方は別なのですが、食に肉を取り入れている方であれば、知っておいて良い事実ではないでしょうか。確かに首を斬られて苦しみ、最後は体をバラバラにされてしまう動物の姿を見てかわいそうに感じる心境も理解できます。でも、実際に自分の口に入る肉、食べて美味しいと感じている肉はどう目を逸らそうとも、屠畜を経て食卓に並んでいることは変えられない事実です。

 

場所や方法は少しずつ違えど、誰かの手によって屠畜・解体された肉が私たちの命の源になっていること。クルバンはそれを再認識させてくれる良い機会でもあると感じさせられました。

 

【クルバンを犠牲祭と呼ぶことについて】

 

最後に少し。このクルバンを日本語で「犠牲祭」と記すことが多いことについて、思うことがあります。

 

Hari Raya Qurban(ハリラヤ クルバン)/Eid Al Adha(イード アル アドハー)の説明にも記載しましたが、「Qurban」は日本語で「犠牲」を意味します。そのため、イスラムの祝祭ということでこの日を「犠牲祭」と表現する日本語のメディアは非常に多いですし、直訳の意味は決して間違ってはいません。

 

しかしながら、多くの日本人は犠牲という言葉にネガティブなイメージを持っていませんか?そして、人によっては「前時代的」「残酷」と捉えるこの屠畜を行うイスラムのクルバンに「祭」という単語が組み合わされた瞬間、どうしても「不必要に動物を殺生して盛り上がっている」ような、どことなく否定的な感情を持たれがちだと感じています。

 

祭もその言葉自体には陰陽のさまざまな内容がありますが、日本人はどちらかというと明るい意味で盛り上がるものとして捉えている方が多いのではないでしょうか。言葉は響きのみならずその視覚から入るイメージも含めて難しいものだと感じざるを得ません。

 

これについては、2019年のNewsweek日本版にエジプト人東海大学アルモーメン・アブドーラ教授が詳しい記事を掲載しています。ぜひ目を通してみてください。

www.newsweekjapan.jp

 

とは言うものの、ではイメージを大きく変えられるだけの代替用語があるかというとそれも難しいと感じたため、今回の記事ではQurban(クルバン)と表現することを徹底しました。決して多くの日本人が思う明るく盛り上がるイメージの祭やイベントではないこと、それを少しでもお伝えできたらと考えての言葉の選択です。

 

これについてはあくまで私個人が思うところですので、読者の皆さんからのご意見などもあればぜひうかがってみたいです。

 

【最後に】

 

マレーシアで行われるハリラヤ ハッジの儀式「Qurban(クルバン)」について詳しくご紹介しました。長文、そして時には読むことがつらいと感じるかもしれない内容もあるなか、最後まで読んでいただいた方には心から感謝します。

 

今回この記事を書くにあたり、先にIGやXで簡単にクルバンの内容を紹介したところ、マレーシアで暮らすお子さんを持つ方数名から「子供にもいつかは見せてみたい」という言葉をいただきました。正直、日本人の感覚だと今回ご紹介したような内容をすべて見せることに踏み切れる方は少ないだろうと感じていますし、それも致し方ないことでしょう。

 

ただ、私がこれまで参加してきたクルバンではマレーシア人の子供達が大勢その場に居合わせ、皆じっとその様子を見つめている姿がとても印象的でした。夫に聞いてみても小さい頃は毎年必ず見ていたし、手伝いにも積極的に参加をして穴を掘って屠畜の残骸を埋めることなども行っていたそうです。子供ながらその場で色々なことを感じながら過ごしたのだろうと想像します。

 

もちろん価値観や感じ方は人それぞれですし、老若男女を問わず何かのトラウマなどがあってそういったシーンは受け容れることが難しい方もいるでしょう。そういった方まで無理に見たり知ったりする必要はないと感じてはいますが、人が生きる上で必要な命の殺生について知るチャンスがマレーシアにはあることは確かです。

 

今回ご紹介したクルバンは、非イスラム教徒でも見学ができます。もし興味がある方はぜひ体験していただきたいですし、偶然でもそのような場を目にする機会があればぜひ足を留めてみてください。